秘儀じゃんけんの必勝法~1%に隠された秘密~

ポテトの会理事である松本キリンがお送りする「首も文も長く」のコラムへようこそ。ここでは身近な経験、学問、物事などを様々な観点から追及した結果を読者のみなさまにお届けしたい。真実は隠されているのではなく、空の雲のように気にも留めない些細なことだとお伝えしたい。


じゃんけんとは

皆様はじゃんけんというものを知っているだろうか?グーとチョキとパーが互いに競い合い、その場、その瞬間の勝利を得るために、決められた3すくみで繰り広げられるバトルのことだ。ご存じの通りグーはチョキに強く、チョキはパーに強い。そしてパーはグーに……といった風だ。そしてグーとグーというように同じ手に出会ってしまうと「あいこ」という状態になり仕切り直しとなる。

じゃんけんで勝つといいことがあるというのは大勢の人の認識である。逆じゃんけんとして、負け抜けなどローカルルールが行われることもあるが、大抵は勝ちの状況に持っていきたいというのが本音だろう。それに対する人類の解決策は確率論や心理学であるが、私はそれらに詳しくないので別の観点からじゃんけんを調べていたが新たな気付きを得ることができた。それを本日皆様に共有したい。

じゃんけんを紐解く

まずじゃんけんを紐解いていこう。最初はグーとあるが、これは戦闘合図なのである。遅れたものが大抵つられて負けてしまうように、啖呵を切る。いや上品なれば決闘前の口上を、宣誓を現代的に平易にしたものだろう。そして武人(じゃん拳)同士の礼儀だ。だが手には「グー」という戦いの意志で決意を見せる。ここで最初にパーを出して勝ったと抜かす半端人にじゃんけんは向かない。本来ならパーと言うのは手に武器はないことを示す安全さの協調であるが、ここは戦場である。武器を持ってないような人間が来るような生温い場所ではないのだ。じゃんけん界隈で「礼儀の知らぬ半端者は家に帰ってママとかくれんぼをしとけ」と詰った猛者がいるが、私も同意見だ。かくれんぼは礼節を知れる入門である。それさえも出来ぬならじゃんけんをやるには程遠いだろう。

話が逸れてしまって申し訳ない。そのあとの「じゃんけん」と宣言する部分だがこれは確認である。お互いの意思疎通のためでもある。「これからじゃんけんをやりますがよろしいですか?」という意味合いだ。試しに「じゃんけん」と言ったタイミングで「やりません」と答えてみよう。するとじゃんけんは止まる。じゃんけんをする者にとって引き際は重要だ。相手にじゃんけんの意思がないのに続けることはマナーに欠けている。この奥ゆかしさがじゃんけんの肝なのかもしれない。だんだんとじゃんけんについて分かってきただろうか?

そして「ぽん」だ。掛け声であり個人や地域によって違う場合がある。これは銃声と言ってもいい。時折ブラフとして「グー」や「パー」など攪乱させるためにすり替えるブラフ師がいるが、残念ならがあまり効果的ではない。銃声とともに飛び出た弾丸は針路を変えたりしない。同じように「ぽん」ででたじゃんけんの手がブレることはないのだ。ここまでがじゃんけんの駆け引きだ。皆様が無意識に取り組んでいることだが改めて見るとこれだけの取り組みが短時間に行われているのだ。勝負の縮図というのはやはり美しい。だからこそ子供も大人もじゃんけんを止めることができないのだ。

じゃんけんの真実

じゃんけんはそれぞれの手を出す確立を計算すると33%ずつになる。ほんとうは少数点以下が続くのだかそれを数えるのは億劫なので切り捨てた。するとどうだろう、1%残るのだ。これがじゃんけんの真実である。如実に浮かび上がってきた事実に多くの読者が驚いているかもしれない。だが驚くことは残っている。この33%という数字をじゃんけんの手分(グー、チョキ、パー)足すと99%になる。1%と99%、このふたつでピンと来た人もいるだろう。そうエジソンだ。彼は我々が気づくよりも先に知っていたのだ。「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」。そうグー、チョキ、パーとは別に「ひらめき」があったのだ。

じゃんけんはひらめき

しかしほとんどの人は「ひらめきなんか手を出したことはない」と思うだろう。だが「ひらめき」というのは定義されたものではない。じゃんけんという形作られた狭い枠から飛び出そうと思ったことはないだろうか?勝つために卑怯を使ったことはないだろうか?グーのまま相手を殴ってうやむやにしたことはないだろうか?確かにじゃん拳の世界では外道であるがこれこそ「ひらめき」だ。人は枠組みを壊すという活動を経てようやく、どれだけ枠組みと言うのが偉大で大切なのかを理解する。この人生に連なる「ひらめき」をあなたはもう獲得している。

あいこの真実

さて最後に不思議なことがある。気にも留めないが「あいこ」という言葉、不思議ではないだろうか?我々が「あいこ」という単語を口に出すのはじゃんけん以外だと「aiko」ぐらいしかない。aikoは恋愛ソングの代名詞とも言え、素晴らしい歌詞の中で人の恋心を表している。私ごとだか「花火」という曲はいい。恋に破れたとき、打ち砕けた想いを抱えて情けなく眠るときに聞く。私の歌を耳元で歌ってくれるaikoは優しい。

そのaikoは実はめざましジャンケンに登場したことがあり「パー」を出している。先にも言ったがパーというのは手の内に武器などを隠してないことを表している。これはaikoが武人であるという前提ではあるが、そうでなくともパーと言うのは包む手前の動作であり包容力の大きさがうかがえるだろう。そう、あいこというのはお互いへの許容なのだ。それは「あいこ」という一単語で済まされてしまうが、aikoが教えてくれたように、彼女が耳元で歌ってくれた歌のように優しいことなのである。

おわりに

このようにじゃんけんは99%の形式ばった試合内容(礼節)と1%のひらめき(盤外戦術等)、そしてaikoの優しさでできている。このように考えると普段何気なくやっているじゃんけんに深みが増したのではないだろうか? 日常に色を、新たな楽しみができたのであれば幸いだ。このコラム「首と文を長く」では皆様からのテーマも募集している。送るところはまだ作っていないので送れないが是非皆様からのお便りをお待ちしている。

(本コラムは、筆者の個人的見解に基づいて書かれています)
編集:ヌー厚本

ライター
松本キリン
希代の作節家